不整脈と痛風が主訴でいらした患者さまが2度目に来院した時の会話です。
「先生、不整脈はお陰様で出なくなりました。」
「良かったですね。」
「痛風の方も足の可動範囲が広がり、歩きやすくなりました。これで痛みがなくなるとまたビールともつ煮の生活に戻って再発してしまうのでしょうね。」
「それって親が見ていなければ悪さをする子供と同じじゃないですか?」
「だってずっとガマンしてきたから」
「じゃあ、ビール飲んで、もつ煮食べちゃったら」
「そんなことしたら死んじゃいますよ!」
「じゃあ、すっぱりあきらめましょうよ。」
「でも好きなものをガマンするのは…。」
「じゃあ、飲んで食べて」
「それじゃあ、周りに迷惑かけるし…。」
「周りの迷惑ではなく、あなたの問題ですよ。」
「…。」
完全にドン引きされてしまいました(^^ゞ
この方は「病気であることが前提」だと思うのです。
多くの人が「病気だから、節制する」と考えます。しかしそれは「病気ではないのだから、不節制してもかまわない」というニヒリズムと背中合わせの考え方ではないでしょうか?私たちはは、たとえ病気だとしても、たとえ余命宣告を受けたとしても、この生を生きていかねばなりません。ですから、病気に怯え、自分が「わたし」であることを抑えて生きていくことは辛いと思うのです。
性格リフォーム心理カウンセラーの心屋仁之助さんはブログ『心が風になる』「条件付き幸せ、条件付き不幸」でこう言っています。
「条件がどうであれ、
自分が満足していようがいまいが、
病気だろうが、お金がなかろうが
理不尽な目に遭ったり叩かれていようが
「すでに、幸せで、ある」と知ることです。」
是非、全文お読みください。
病気とどう向き合うかはあなた次第ですが、「病気であることが前提」の生き方と心屋さんの言うように「すでに、幸せで、ある」という生き方を少し考えてみませんか?
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